航空整備士、自衛隊、看護師、そして福祉事業の経営者へ。多彩なキャリアを歩みながら、その時々の選択を「自分らしく」積み重ねてきた山上明日。
地域や家族と向き合う中で見えてきた“社会の本質”と、これからの時代に必要だと感じる「子どもたちの心を育てる場」について話を聞きました。
プロフィール

山上 明日(やまがみ・はるか)
株式会社SOERUTE 代表取締役社長
岩手県出身。自衛隊入隊後、航空機整備員として那覇基地に勤務。結婚を機に転職を決意し、看護学校に進学。救急病院での勤務、出産、オーストラリアへの帯同を経て、義母が携わっていた福祉事業を引き継ぎ、法人を設立。現在は福祉・訪問看護を中心に、地域に根ざした事業を展開している。
起業は思いがけない始まりだった
― 今日はよろしくお願いします。
山上:こちらこそ、よろしくお願いします。

― 早速ですが、山上さんは今代表取締役として活躍されていますが、昔から起業をしたいなどの思いがあったんですか?
山上:それがそうではなくて青天の霹靂といいますか(笑)もともと岩手県の出身でパイロットになりたくて自衛隊に入ったんです。
― プロフィールにも書いてらっしゃいましたよね。
山上:はい、自衛隊に入った後に適性検査を受けて一度は落ちてしまったんですが、やはり自衛隊に入りたいと思って、もう一度適性検査を受けたんです。その結果、私は航空機の整備員に決まり、それで赴任先が那覇基地になったんですよ。
― 那覇とは羨ましい!
山上:そう思われるかもしれませんが、那覇基地は今では考えられないような厳しいところで、男の職場、かつエンジンの部門に配属になりました。エンジンの部品を一つでも忘れるとエンジンが壊れてしまうので、そのようなことがあった場合は滑走路など全てを見回って探すような、安全に関して非常に厳しいところでした。
― それはすごいですね。
山上:そして、自衛隊の独身の人は自衛隊の基地に住むんです。さらに部屋はメタルラックで区切られているくらいなので、休みの日も「ランニング行くぞ」などと言われて付き合わされて…という感じでして。休みなどはなかったです。
― プライベートはないですね。
山上:そうですね。そこからパイロットになりたくて試験を何度か受けたのですが、身体検査などに通らず結局なれなかったんです。パイロットになるのを諦めた頃に主人と出会い、その後同じ自衛隊員だった主人と結婚をしました。ただ、主人と転勤スパンが違ったんです。主人は2、3年スパンの転勤で、私は7年から10年スパンの転勤という形でした。これは階級が違うからなんですけど、中には夫婦で転勤を合わせる人もいたのですが、私は職業を変えた方がいいなと思いまして、そこで思い切って看護師を目指すことにしました。
― ずいぶん思い切りましたね。
山上:そう思いましたが、沖縄にいる時に看護学校に行く準備をしたのですが、看護予備校にいくと結構ママさんで受けている人が多かったんですよね。周りを見ると、とりあえず3年乗り切ってしまえば働くところがあるからと話す方もいて、私なんか負けてられないなと思ってガリガリ勉強しました。そして無事に合格することができ、主人の転勤先の看護学校に通いました。そこの学校は社会人枠がないところだったので、1人だけ6歳年上で3年間頑張りました。
― その経験は人生の中でも大きな経験ですね。
山上:そうですね。その後、都内の救急病院に務めることになったのですが、もう少し働きたいと思った時に、なんと主人がオーストラリアに転勤になったんですよね。そのため私は退職せざるを得なくなりました。
― 急な出来事ですね。
山上:オーストラリアに転勤が決まった頃、お腹の中に長女がいて、お腹が大きい状態で救急救命で働いていました。
― すごい経験ですね。
山上:そしてそれからオーストラリアへ行き、移動してからは専業主婦だったのですが、勤務先がキャンベラだったので、大使館関係者の方が多く、レセプションなどに参加させていただきました。当時の私にとっては慣れない場にも多く行きましたが、勤務期間も一年半だし子供もいたので頑張ることができました。
このときの過ごし方ですごい考え方も変わって、私はそれまで日本にいる間は「〇〇せねば」という考えが強かったのですが、オーストラリアでは子供が走り回っていても「子供はそういうもの」という姿勢で対応してくれて気が楽になりましたね。

義母の骨折と妊娠8ヶ月、そして法人の設立へ
山上:自由な感じを経験させていただいて、日本にいた閉鎖感を解放できたなと思いました。
この後、そろそろ日本に戻るという頃に川崎にいた義理の母が骨折をしてしまいまして。その1ヶ月後くらいに日本に帰国したのですが、実はこの頃、義母が行っていた事業ができなくなってしまったんですよね。しかもその時、私のお腹の中には2人目の子供がいて妊娠8ヶ月だったんです。
― それはまた大変な状況ですね。
山上:主人は国家公務員なので、仕事に行かなきゃいけないじゃないですか。
義母も動けないので、じゃあどうしようとなりまして。
そこで繰り返し義母と話し合いを行い、話し合いの結果、私が会社を新しく建てて事業をすることになりました。事業内容は今行っているような福祉関係だったので、利用者様に迷惑をかけるわけにいかないため、当時詳しくなかったケアマネジメントについてものすごく勉強をしました。そして当初は介護だけを扱っていましたが、私が看護師ということもあり、訪問看護も始めました。
子育ても、現場も、すべてを抱えて走り続けた
― その頃はどういう生活をしていたのですか?。
山上:この頃のことは記憶がほとんどなくて疲れすぎて床で寝たりしていました(笑)次女が生まれたばかりで、夜中の授乳中でも、オンコールがあれば出動して、時には看取りもさせて頂くこともありました。
― 母親業に看護業に経営者業に…まさに三足の草鞋を同時に履いていたのですね。
山上:そうですね。開業当初は当然ながら依頼が無いわけです。ですから、子育てをしながらちょっとずつ営業をしていって、時には砂を噛むようなこともあったりしながら少しずついただいた業務を引き受けることで、ちょっとずつ使ってもらえるようになっていきました
― 目の前のことを少しずつ取り組んで行った結果、今の法人に繋がったんですね。
山上:そうですね。当時は、百合ヶ丘で訪問介護中心に運営していたのですが、「グループホーム つなぐ」の健康チェックを依頼されたんです。それで私たちが関わらせていただくようになってから仕事依頼も増えました。そしてその様子を見ていた前法人から、他の施設の運営もやってみませんか?とお声がけをいただき、今の法人名に変更して運営する事になりました。
子どもたちの“心を育てる場”をつくりたい
― 山上さんのコツコツと積み重ねた実績による信頼があって、今の法人があるんですね。何か今後の夢や目標はありますか?。
山上:今自分がここまで走ってきて思うことは、これからの子供達の心を育てる部分はどうなるんだろうなということです。子供は仕事には連れて行けないじゃないですか。だけど、親が仕事している姿を見ることってすごくいいことだと思うんですよね。今、現場で利用者様のお子様が「子供の頃こうして欲しかった」と話されることも多々あるんですが、アタッチメントというか愛着の形成ってすごく大事だと感じるんですよね。ただ単に具合が悪い人に処置をするのだけが看護・介護ではないので、そういった社会課題も含めた上で今日本がどうなっていくのか、そこには実は看護とか介護とかそういう分野別ではなく全部が繋がっていたりして、考えていかなければならないことが多いのだと思います。
まとめ|“誰かのため”が、自分の道になる
子育て、看護、経営。常に誰かのために力を尽くしてきた、山上明日。
その原動力は、目の前の人と、社会の課題にまっすぐに向き合う姿勢にありました。
積み重ねてきた日々が、地域や社会の未来に少しずつ広がっていくように──。
山上の新たな挑戦は、すでに始まっています。
